イギリスでの生活にある程度の慣れてきた私。近くにある大学「Canterbury Christ Church University」に通う学生とも知り合って、行動範囲も広がってきました。
そういえば彼のおかげだったか、別の学生からだったか。大学の図書館も紹介してもらって自由に出入りできるって教えたもらったのも、英語を勉強する上で非常に助かりました。
イギリス留学カンタベリー編⑦ クリスチャン学生との勉強会
さてクリスチャンである学生さん。毎週水曜日にキリスト教に関する勉強会も開いているということもあって、私は彼とよく会ってました。
よく考えれば熱心なことです。日本では仏教系の大学に行っているからといって、自分で仏教の勉強会を開くなんてこと、あまり聞きません。(私が機会がないだけだったかもしれませんが)でもそのクリスチャンの学生さんは、興味がある人を対象にその会を開いていました。
色々と日本人の私の為に分かり易い資料も探してきてくれました。その資料の一つがこれ。
「friend international」 ネットで調べると出てきました。イギリスに来ている留学生をサポートしているキリスト教チャリティ団体のようです。
後々、ウィットビーでキリスト教系の語学学校にお世話になったのですが、そこでこの資料を見せたら「クエーカー(Quaker)」っていう単語が出てきました。ちなみにクエーカーとは、17世紀にイングランドで設立された団体です。
勉強会ではこの本を中心に話することもありました。
ざっくばらんな議論
またキリスト教徒の人の体験談を聞く機会もありました。他にも、他宗教ながら来ている人との話も印象的でしたね。「神様なんていないよ」なんて話題も、ざっくばらんに話していました。
ちなみに私は「分からない」っていう立場で話していました。
「いるか、いないか、証明しようがないから、分からない」
あ、もちろん、私は仏教徒っということを前提に参加させてもらってました。お釈迦さん自身も「無記」といって、そういう話には答えなかったそうです。
無記についてはこちらを参考に。
例えば、「人は死後も存在するのか、しないのか?」という問題。 これはどちらも証明しようがありません。死んで帰って来た人はいないわけですから。帰ってきたら死とは言えません。あるともないとも証明できないこと。こういう問題に対してお釈迦さんは、何も「記して無い」わけです。
つまり、分からないということです。
私は「神はいるのか、いないのか?」という問題も同じだと、当時思いました。少なくとも上記の議論に対しては、分からない。あるか、ないかの結論しかないのは、違うと思う。そのような立場で話していたのを覚えています。
クリスチャンとしての学生さんの考え。仏教に基づく私の考え。他の色んな参加者の考え。お互いに意見を交えて話し合えたのは、貴重な経験でした。
最後に
意見を交えたといっても、拙い英語でしたけどね(笑)
伝えたいことも上手く言えなくて、試行錯誤した覚えがあります。でも聞き手もどうにか理解しようとしてくれようとする気持ちが嬉しかったです。だからこちらも一生懸命話しました。そして聞いてました。それになんとなく、お互いに何か通じたと思えた時は嬉しかったですね。
ひょっとしたらそういう事も、英語のコミュニケーションにも繋がっていたのかもしれません。 私の英語の目標は、いつしか「コミュニケーションが上手くできること」になっていました。
つづく……